中山道の難路、木曽路の最南端に位置する宿場町として栄えた馬籠宿。 全長600mの石畳の坂道に沿って、軒の低い格子造りの家並みが宿場時代の面影を残す。 明治28年の大火事により江戸時代からの建物は焼けてしまったが、町の人達の努力で、当時を彷佛させる。
妻籠宿は中山道と飯田街道の分岐点に位置し、古くから交通の要所として栄えた。昭和43年に町並みの保存が始められ、昭和51年に国の重要伝統建造物保存地区に選定される。全長約500mの町並みは、江戸時代にタイムスリップした感じで、どれも当時の面影を今に伝えている。
江戸幕府の天領であった飛騨古川。歴史の重みを感ずる城下町は、出格子の商家や白壁の土蔵が続き、鯉の泳ぐ瀬戸川の清流のせせらぎが街の中心にあります。
飛騨高山は、小京都と言われています、それは古い町並みと陣屋にあると思います。その陣屋周辺の 昔ながらの建物や面影は、古きよき日本の雰囲気を感じ取ることができます。古い町並み、保存地区として高山市民が一丸となり昔のままを守り続けています。
真田邸は江戸時代には新御殿とよばれ、松代城の南側に位置して元治元年に建てられました。昭和56年に松代城の附(つけたり)として国の史跡指定を受けました。文武学校は、松代藩士の子弟の学問・武芸を奨励するため、8代藩主真田幸貫により佐久間象山の意見を受けて、蘭学・西洋砲術など積極的に取り入れた藩校として計画され、安政2年に開校しました。
田中家は、江戸中期1733年、穀物・菜種油・煙草・綿・酒造業などの商売で繁栄し、代々須坂藩の御用達をつとめるとともに、名字帯刀を許される大地主でその財力は須坂藩をも上回る北信濃屈指の豪商でした。当時の面影を伝える屋敷構えは、約100m四方を20の土蔵が取り囲む豪壮なもので、池泉廻遊式庭園のほか、客殿や主家などの建物が軒を連ねており、四季折々の風景が楽しめます。
宿場町の面影を残す熊川の町並み。 まちを通る若狭鯖街道は、日本海と京都を結んでいた。 この道を、多くの人や物、そして文化が行き交った。 昔の面影を残す趣のある街並みです。
町並みは、浅黄色と白漆喰で塗りごめられた重厚な外壁があり、棟を街路と平行に通す平入造りで、街路に面した壁面が通っています。隣家との間には道路や水路空間を残し、この路地空間は、他では見られない造形美を醸し出しています。
海辺ぎりぎりに建ち並ぶ舟屋は、1階が舟の格納庫の他に、漁具などの物置場として使われており、2階は住居となった機能的な建物。平成17年には、漁村では全国初となる国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。
角館は東北地方秋田県の中央にあり、深い木立と重厚な武家屋敷が藩政時代の面影を残す角館。みちのくの小京都と呼ぶにふさわしい風情を町全体に漂わせた桜の名所です。
東海道五十三次第47番目、屈指の宿場として参勤交代の大名行列や伊勢詣りの旅人で大いに賑わいました。 天保14年の記録には、屋敷632軒、本陣2軒と脇本陣2軒、旅籠42軒酒食店99軒があったと記されている。
日光今市から会津若松に通じる旧会津西街道、別名下野街道、南山通りに沿った山間の地にあり。江戸時代の宿場の雰囲気をよく残しており、全国から観光客が多数訪れる。街道沿いには茅葺き民家も見られる。
玉石を敷きつめた道と水路、柳の並木、大きな家屋敷。歩いている人がみんなちょっといい顔になる小道です。宗祇水(別名白雲水)は環境省が選定した「日本名水百選」の第1号に指定されたことで有名になった湧水です。 しかし本来は、由緒正しき史跡です。
有松は、17世紀の初めに拓かれた東海道の中では比較的新しい宿場町です。実はそれまで有松周辺はおいはぎが多く、たいへん物騒だったことから、幕府の令を受けて人々が住むようになったのだそうです。慶長13年(1608)に、江戸や京、お伊勢参りの旅人たちの休憩のために、尾張藩が間の宿として、鳴海宿と池鯉鮒宿の間に町がつくられこれが有松です。
藩士のために作られた武家屋敷跡が、江戸時代さながらに今も残されています。この武家屋敷跡がある町は、70石以下の下級武士の住まいとして、碁盤の目のように整備されました。
島津氏16代島津久達の時代に風水を取り入れ形作られたとされています。薩摩藩は鶴丸城を内城とし、藩内に113の外城を設け御仮屋を中心に武家集落を造り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治にあたらせました。
世界文化遺産で国指定史跡の白川郷・五箇山は、険しい山間部の豪雪に耐え、内部は養蚕に利用するために工夫された合掌造り家屋と、その周辺の自然景観が文化遺産として登録されています。
葛飾北斎館、高井鴻山記念館を中心とした町並み景観は、昭和51年に開館した「北斎館」が景観形成作りのスタートとなったようです。あくまで「生活型町づくり」にこだわり「修景」という概念に徹してうるおいのある美しい町。
中山道十一宿のうち北から2番目の難所:鳥居峠を控えた宿場町。かつては街道を行き交う旅人で栄えました。その様は「奈良井千軒」と謳われ木曽路一番の賑わいでした。
商人町として発達した上町、下町の三筋の町並みを合わせて「古い町並」と呼んでます。出格子の連なる軒下には用水が流れ、造り酒屋には看板ともいわれる杉の葉を玉にした「酒ばやし」が下がり町家の大戸や、老舗ののれんが連なっています。
奈良盆地の南、橿原市今井町は、江戸期からの町家が集まる全国でも最大規模の「町並み保存区域」です。1993年に、国から「重要伝統的建造物群保存地域」に指定された
常滑市中心市街から北に位置する尾張大野地区空襲、大火を免れ生き残ってきた文化や町並み。そしてそこに受け継がれた歴史を訪ね、江戸、明治、大正、昭和、平成と変化していく古さと新しさを体感することができます。
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