 |
於大の方位牌 |
平安時代、天暦2年(948年)に菅原道真公の孫である菅原雅規が開基となり、天台宗の久松寺(洞雲院の前身)を創建したと言われている。雅規の幼名は久松麿と言い、後に英比丸、英比殿とも称された。英比殿は天性朴質、極めて聡明、仁恵に厚く善政を敷いた。没後、いつの頃からか人々はその徳を追慕し、英比殿夫妻の木像を彫刻し、厨子〈ずし〉に奉安して英比荘の民家1戸1日の割で廻送し、供養を怠らなかった。世に「廻り地頭信仰と言われた。この民俗信仰は明治維新とともに途絶え、現在、木像と厨子は、当山霊廟に安置され、学問上達信仰として祭られている。室町時代、明應3年(1494年)雅規の後裔、久松定益が曹洞宗の洞雲院として再建し、七堂伽藍と四つの塔頭を整備した。開山には加木屋普済寺在室岱存大和尚を迎えた。天文16年(1547年)久松俊勝のもとに徳川家康の生母於大の方が再嫁された。阿久比在城15年間に三男四女の計7人の子女を出生。俊勝の子は松平姓に改められ、後に桑名城主、松山城主をはじめ多くの大名、旗本として世に出した。当山の境内墓地には、英比殿をはじめ於大の方等13基の墓がある。また、例年3月16日には於大の方が女性の幸福招来を願って始まった観音懺法会、通称「おせんぼ」が行われる。 ※写真の上でクリックすると拡大表示します
|