赤穂浪士討ち入り301年目の翌日にあたる12月15日赤穂の菩提寺「泉岳寺」をお参りしてきまし た。元禄14年(1701)3月14日、赤穂城主、浅野長矩公は、幕命により勅使参向の饗応の正使を命ぜられ、時の指南役高家筆頭の吉良善央の処遇に不満を持ち、江戸城殿中に於いて刃傷に及んだ。幕府は即夜、公に切腹を命じた。長矩公家臣大石良雄、同士46人と共に辛酸の末、元禄15年12月14日夜吉良邸に討入り、吉良善央の首級を挙げて主君の復讐を遂げ翌15日泉岳寺に引揚げ主君の墓前にその報告をした。元禄16年2月4日幕府は義士 一党に対し切腹を命じ、その遺骸は主君の墓側に葬られたわけです。なお一党中寺坂吉右衛門は、 討入の後、大石の命を受け瑶泉院(長矩公夫人)及び一党の遺族等に復讐の顛末を報告して廻り、後江戸に帰って自首したが、時効を以って赦され、83才の天寿を全うした。その遺骸は麻布の曹渓寺に葬られ、泉岳寺の墓は、慶応4年6月供養のために建てられたものだそうです。討ち入りの翌日に当たるせいか境内は大勢の参拝者であふれ義士の墓をお参りしようとする人々が長い行列を作っていました。また、本堂では、津軽三味線の演奏が行われていました。 ※写真をクリックすると拡大します。 |