野中ともよ「プレイバック高校時代」                    HOMEリポートTOP

 三洋電機の会長に富士高校の2年先輩の野中ともよさんが2005年6月29日付で就任した。
野中先輩は高校時代どんな人だったのだろう?
 手がかりとなる本が見つかった。絶版となった福武書店「プレイバック高校時代A」(おそらく1983年刊)の中で野中さんがご自分の高校時代について書いている。このたび、野中ともよさん、ベネッセコーポレーションの了解をとり、「プレイバック高校時代」をホームページに掲載することにした。野中さんの高校時代をたどりながら、忘れていたあの頃を思い出してください。印刷しやすいよう、ながながと掲載します(^_^;)

 はじめの一歩

 どうぞ、あなたが、これから一体どんな高校生活を送っていったらよいのだろうか、そうだ、その参考にしてみよう、などと思いながら読む、純粋な青少年ではありませんように。
                                                 ・・・
 その人の足跡を胸躍らせて読むの図は、『世界偉人伝記シリーズ』を手にする小学生がぴったりです。
 十六、十七歳になって、先人の助言をきこうと、しかもお金を払ってまで本を購入する率直な高校生の瞳に触れている、と思ったとたん、やはりはだしで逃げだしたくなってしまうのです。(編集担当のYさんごめんなさい、でもホントです)
                                             ・・・
 もし私にできるアドバイスがあるとすれば、俺は俺、私は私の十代後半をズ太く生きてやるー と声を大にできるほどの健康な肉体づくりに、励んで下さい。まず、これです。
 あまりちまちま考えない。いろんな人の生き方を参考にして、合理的に失敗の少ない高校生活を送りましょう、なんてコマッシャクレタ考え方は中年過ぎてからでも間に合います。
 どうぞ沢山つまづいて、失敗して、失望して下さい。自らの痛みの方が、他人の助言より、どれほど人生に効くかわかりません。

 『ピンチこそ、チャンス』
 これが私の、座右の銘です。

 十年ひとむかしですから、もうふたむかしに近くなる時代の、なんとも薄けむたい記憶のあの頃の生活…語るになんか値しませんよ、いえ、その器じゃゴザイマセンよ、と再度の抵抗にも拘らず、終始、お髭の微笑を絶やさない作戦で勝利したUさんに負けて徒然に認(したた)めさせていただきます。

 気くばりのすすみすぎ

 丁度中学三年の九月に盲腸炎になり、腹膜炎とまではいかなかったものの、1ヵ月以上入院する騒ぎとなったT嬢(注:野中ともよ転じてT嬢です)は、日々是不安。ベッドの上でも、なんとなく参考書など学習する毎日でしたが、「進学の手引き」など持って、お見舞いに来て下さる担任はいたって呑気。
 時は、昭和四十五年。東京では都立高校の学校群制度が軌道にのって、内申書の威力が充実している頃でした。
 中学三年間に、生徒会執行部の幹部を続けて、風邪ぎみで欠席が多いから4になった体育を除けば、あとは全部5が並んでいる成績ならだいじょうぶ、大丈夫。受験の時に、受験番号と名前さえ書ける体力さえあれば、あとは寝てても合格ですよ、と言うのが担任の先生のお言葉でした。                                                                                                                                            
 生まれた時には、健康優良児の赤ちゃん賞を受け、日に八本の牛乳を飲み、すくすくと、というよりも、ぷくぷくしっかり成長してきたT嬢は、どうもこの頃、第二反抗期後半あたりから、所謂、とても神経が過敏な部分が芽生えてくるのであります。今流に言うと、気くばり
   ・・・・・
のすすみすぎ、みたいなもんです。
 その状況の中で、一体自分はどうするべきなんだろう、まわりの人間は私に何を望んでいるんだろう式のことを、過度に考えすぎて、逆に、身動きがとれなくなってしまうことが大変多くなる。そのプレッシャーがストレスになって、神経がヒリヒリしてくる、といった按配です。内科のみならず、歯医者に行っても、眼科に行っても診断は、神経性ナントヤラばかりでした。
 結局、この受験の時も、この中学で一番なんだからひとふんばりして、国立をねらわなければ、一流私立にトライしなけりゃいけない、なんてもんがチラチラ使命感風に漂ってきて、病いが長引いたんだと思います。
 この本のシリーズに登場なさる天才的頭脳を持った諸兄と異なって、凡の才だけに、己れの限界を素早く悟って、健康のブレーキをかけたのかもしれません。
 
 元気が一番。担任の先生のお言葉を信じて都立高校に進みましょうと決心。華やかに、社会に反旗を翻していた新宿、青山高校などの公立魂に心ひかれてもいた時期でした。

 西にかくれる富士のヤマー
 
 第三学区、32群。都立西高校と富士高校の二校。これは、どうしたって西高校だ、と決めていたのです。
 白えりをつけたセーラー服の、東京府立第五高等女学校転じての富士高校で学習する自分など、全く想像だにしなかったT嬢でした。杉並や練馬、中野区の優秀な女子学生は、伝統的に皆さん富士へ進みますよ、おめでとう。合格発表の結果を伝えに行った職員室で、口々に先生方が語ってくれるオメデトウの、なんと虚しく響いたことか。
 どちらの高校が第一希望かを書く欄もない当時の受験制度では、とにかく文句の言いようもありません。聞けば、各中学から提出された願書の名簿順にふりわけたとか。
 学校格差をなくすための措置だったようですが、当時の私にとっては、いかにも残酷な制度であったことは確かです。最近になって、根本的に学校群制度が見直されはじめたそうですね。プラスやマイナスいろいろでてくるでしょうが、なんだかホッとしています。
 
 ジーパンはいて自転車で通う西高校が遠くにかすんで、セーラー服の地下鉄通学と相成るわけです。
 ヨーイ、ドン! 元気にスタートを切るはずだった高校生活は、まずはじめの一歩で、なんとなく重たいガッカリを背負(しょ)うことになってしまいました。
 伝統の男子校、西高をめざしていた男子生徒の悔しさは更なるものがあったのでしょう。
当時の富士高では、
 ♪第三学区、32群――、
 西にかくれる 富士のやまー
というような川柳じたての、かえ歌が流行っていたような記憶があります。

 何色の高校生活送ります?

 高校時代――青春まっただ中。三歳年上の兄が送っていた生活が、まさにそれでした。幼稚舎から大学まである、K高校での三年間。フェンシングの体育会で思いきり汗をかき、冬はスキー、夏は友人たちと別荘から別荘へ。しっかり勉強もしながら、フォークロックのバンドを組んでコンサート活動やら、チャリティーショーやら企画して。
 素敵なガールフレンドたちを、うちへ招いて楽しくテーブルを囲む兄の横顔は、「これが青春だ!」(ご存知ですか?)とか、あるいは加山雄三さんの「若大将シリーズ」のヒーローのように輝いて見えたものです。
 ああいうのもイイナと思いつつ、でも都立高を選んだからには、私はちょっと違う高校生活を送ってみよう。ちと硬めになるだろな、くらいの心の準備はありました。
 世の中を動かしている経済学とやらを学んでやろう。隣の方で何やら騒がしくなっている中国って国の思想や哲学もできれば学習したい。社研(社会科学研究――当時の尖端的クラブ活動組織です)へ入ろうかな。社会に対する”?”(クエスチョン)マークを、素直に、しかも勇気を持って行動にする当時の学生運動に、正義のエネルギーを感じていた頃です。
 
 どんな集合にも、各々に、他の集合とは異なる意味や特徴があるものです。
 好むと好まざるとに拘らず、自分が属してしまった集合の色あいや意味を把握することなしに、個として活動するのはかなりの無駄と苦痛を伴うもののようですよ。

 若大将の私立とは対極であっても、エネルギッシュな公立高校生活! となる筈だったのです、が。
 一ヵ月、二ヵ月……テニス部、華道部、書道部なんかの勧誘はあっても社研だZだとアジビラ配りの集団などどこにもいません。実に静かで、はじめての中間試験になろうとする頃には、しっかり大学入試のための偏差値なんとやらの資料が配られはじめます。
 やはり伝統の女子高校気風とでも言いましょうか。嵐のように吹き荒れたあの高校学生運動の時に、うちの学校では、ビラ一枚配られることがなかったのです、と言うのが校長さまの自慢であることがある日の朝礼で判明しました。
  ・・・・・
 なあるほど。この一言をのみこむまでに、どれほど悩んでしまったことか。
 中学校では各々成績の上位にいて、そこそこリーダーシップもあって、学校代表なんて役もこなしている連中で、ある人は国立落ちのガッカリ組で、ある人は背のびして32群にセーフになって嬉しくてしかたのない組で、富士高校の大学進学率の高さに惚れてる組もいて。
 灘高やラ・サールのように強烈な受験校ならば、その自覚。大学につながってるから、思いきりエンジョイしていい私立ならば、その自覚。
 そのどちらでもない富士校(ママ)気風を、はっきりと自覚して、その意義を確認できるようになったのは、もしかして、卒業して後のことだったかもしれません。
 あなたは何故、今の高校を選んだのですか。あなたの学校が対社会的に持っている顔、態度、狙い、位置はどんなもんですか?
 高校野球? ラグビー? 合唱コンクール? 東大進学率?……具体的なものであれば随分と楽ですね。ただなんとなく、この街での、中の上クラスの高校よ、なんていうお寿司みたいな評価だと、もったいない時間を多く費やしてしまうような気がします。
 自分と高校との接点を、何の目的で私はこの学校に毎日通うのかということを、できるだけ早めに、でっちあげでもかまわないから、決めてしまうのが得策のようです。
 恋人捜しや、教師のアラ捜し、なんてのでもないよりは数段まし。
 大義名分よりも、小さな本音の方がずっとパワフルですもんね。

 団栗(どんぐり)山のどんぐりさーん
 
 小豆(あずき)の中学校で、どんぐりくんは目立ちます。良く出来るし、身体も立派で、みんなのアイドルなんですもの。
 ところが三年たって高校に入ったら、クラスはもとより、学年中にどんぐりくんやら、どんぐりさんが、わんさかわんさ。
 黙っていても優等生だったどんぐりくんたちは、一斉に不安になりました。自分がちっさな小豆より、もっと惨めなゴマ粒みたいな気持に陥り、青ざめていくのもありました。
 いや頑張るぞと、ジャンプを始めるのもいましたね。
 どちらにしても、どんぐり高校の背っくらべにはすぎませんでしたが、かなり真剣に転校だの、自殺だのを考えた友人も事実いたことは確かです。
 ♪日比谷(高校)のひびは、日々の罅(ひび)!
 とかげ口をたたかれるほど、都立高校のランクや威信が崩れていく過渡期にあったことも原因のひとつなのかもしれません。
 受験競争をまっしぐら、というのでもなく、かといって、大らかに青春を楽しめるほど時間的にも精神的にも余裕をみとめはしないカリキュラム。
                                                                 ・・・・・      
 かなりの刺激を、他力本願的に学校色(スクール・カラー)に期待していたT嬢は、自分自身のパワフルな小さな本音を捜しあぐねて、結構暗っぽい心に日々覆われていった感じです

  ・・  
 選択の洗濯(あらい)なおし
 ちょいと力を注げばオール5のとれる小学校や中学校時代には、自分の好きーな課目と嫌いな課目に、さしたる距離はありません。どっちの方が、テストの時により苦労しないで(勉強しないで)楽ができるか、くらいの差だったものです。
                                                                           ・・・・・
 同じ調子で、高校にのぞむと、凡才は必ず七転八倒。各々に、奥行き深く追究するわけで、私ならば全教科に渡って優等生であるべきです、のスタイルを保持しつづけるためには、相当な努力を強いられることになるのです。
 バケ学、物理、漢文、地学、美術などなど、テストのための、成績評価のためだけの使命感でまんべんなく優秀であろうと努力するのは、結構疲労のたまるもの。
 ふと、まわりをみれば、涼しい顔をして全教科を手だまにとってる頭脳明晰連中もいたりして、ますます己のゴマ粒ぶりに、憂うつになるのです。
 共通一次だ、足きりだ、という現在ではそんな呑気なことは言っていられないのかもしれませんが、もう高校生になったら、まんべんなくの優等生目ざして、結局どの教科もホドホドの中庸学生になるよりも、プリミティブな好き嫌いを明確にして、英語キチガイとか、物理のオニとかを目ざした方が良いのではないかしら、と思うのです。

 美術選択クラスにO嬢というとても魅力的な女の子がいました。とにかく、人を感動させるもの凄い油絵を描くのです。ぶかぶかの化学の実験用白衣をタブリエがわりに着てキャンバスにむかう彼女。迫力さえ漂います。
 どうして都立なんかに進んだの?
 お金がかからないでしょ、そんなに。
 将来は?
 ウン、希望は芸大なんだけど。難しいもんね・・・・・・でも、私にはこれ(油絵)しかないからしようがないんだ。絵と関わってる人生歩くしかないな。
      ・・・・・・                                      ・・・・
 私にはコレシカナイ。百万ボルトの衝撃でした。おまえは一体何なんだ? 何ニモナイぞ。

 全ての人と、須(すべか)らくおつきあいする八方美人優等生のジグソーが足もとから崩れていく予感がしました。みんなが憧れる学校のアイドルにおもいをよせるのに飽きて、見かけは多少武骨でも、ワタシにはアナタしかいない、と言える友だちが無性に欲しくなるのと、似ています。
 自分にとっての平均値より上のものを掬(すく)うという選択から、他を捨ててまで選びとるという選択への転換。あの時に出来ていたらT嬢の人生も違っていたのでしょう、きっと。
 幸か不幸か、胸の中でパチンと鳴った第二の選択への憧れに、遂に最後まで飛び込んでいけない彼女だったのです。


 ズレてませんか?

 なんだか富士高校が、まるで牢獄みたいな印象になってきましたが、もちろん、あっちこっちに恋の花も咲いていましたし、クラブ活動などもそれなり風にはありました。
 習うより慣れろで、失望や戸惑いの季節を過ぎて、元気溌剌とまではいかないまでも、コンナモンなのかな(やっぱり今思い返しても十五、十六、十七歳で、からだ的にもこころ的にも思いきり発散できない暮しは、不健康でしたね)と安定をつかむことができはじめます。
 
 話が少しそれますが、最近では公立の小学校からして荒れきっていると言われますが、本当ですか。進学へのベクトルだけが尊重されて、体力だの情緒だのは二の次、三の次だとか。
 もしそれが事実だとすれば、現高校生の生活たるや推して知るべしなのでしょう。随分長閑(のどか)だったんですね、野中さん・・・・・・笑いながら半分あきれて読んで下さっているあなたの顔が浮かんできます。赤面ものですが、ここまで来たらもうちょっとだけ、よろしければ退屈しのぎにおつきあい下さいな。

 入れ歯S’エングリッシュに敬礼
 
 なんのことはない。人の物真似や、TVドラマの方言を真似るのが上手い程度の耳と、母国語と同じように英語を操る父の英語の小言を小さい頃から聞いていたという程度の理由で、ちょっとホンマもの風の発言ができるというだけのことでした。
 幼児の英語塾に通ったこともないし、中学時代にも学校の授業以外には、何もとりたてて英語、英語と熱を入れた覚えもありません。
 高校に入ってからは、試験のためだけの前置詞だ、SVOだと騒ぐだけで、コミュニケートのための言語の楽しさを置きざりにした、重箱のスミを電子顕微鏡でのぞいて突つきまわすような授業にすっかり呆れて、むしろ英語嫌いの人間になってしまったのです。
 何十年前の、ピカピカ才媛。第五高女を経て、津田塾卒の、オヤ、津田梅子さんのもしや妹さんでは? と見紛うほどの明治が香る先生がご講義下さる英文法に英会話。
 素敵でした。昭和のはじめに先端少女で英語の辞書を小わきにかかえ英詩に涙し、戦争当時は心を痛め、そして終戦後には沢山やってきたGHQだののアメリカ人たちと語ってはみるものの何にも通じず額に汗して、そうだわ、日本の次の世代には是非この屈辱を二度と味わわせないように、私は教職の道を進みましょう、より広くより深い英語を若人(わこうど)に教えるために!
 そんな日本の英語教育史が見えてくるような気がして、目頭が熱くなってしまうことすらある熱のこもった授業でした。
 老眼鏡を小刻みに動かしながら、うめ干しになった口元をとんがらかして読むリーダーを、クラス全員、あるいは指名された学生がリピートします。
 ある日ある時T嬢は、THとSHの発音がなっとらん、とひどくお叱りをうけるのですが、何度聞いても、先生の模範発音にはどちらにもチーという歯と歯の間からもれる音が入っているのです。〔thの発音記号、フォントがない〕とやっても〔shの発音記号、フォントがない〕とやっても納得していただけず、あなたにもできない発音があるようですね、次回まで練習してきて下さいねのお言葉でした。
 どう頑張っても、入れ歯の隙間変格活用まではできません。文法、英作文のみならず、発音までも重箱つつきする(しかもあまり正当でない)英語には、正直言ってヘキエキの感、大でした。
 入れ歯S’イングリッシュが、日本語方言エングリッシュになったり、三年間に、とにかく凄まじいコーチ陣が次から次へと移りかわります。
 多少発音が美しめというだけで、よく虐められたりしたものです。なまじ学校レベルより進んだことを知ってたりすると、教師たちにケムたがられたり、いびられたりしてその教科を嫌いになってしまう子供がいる、と聞いたことがありますが、そんな宿命だったのでしょうか。ウフフ、もちろん、これは冗談ですけれども・・・・・・。
 時には、そんなくらいのこと思ってないとガックリきてしまうような、妙な知的レベルの教師の方々もいらっしゃらないことはない、というお話です。

 番組あてにいただくお手紙の中に、私は高校二年生ですが、どうしても野中さんのように生きた英語を使えるようになりたいんです、どんな勉強をすればよいか教えて下さい。学校での授業は文法とかばかりで何の役にもたちそうにありません。といった、英語学習法に関するお問い合わせが、かなり沢山あります。面映(おもはゆ)い思いをしながら、お返事にはだいたいこんなことを書いています。
 まず、知っていて損になることはめったにないので、馬鹿馬鹿しいと思っても、折角やって下さる先生の授業は、できるだけ清々しい気分で臨み吸収してやろう、と思うこと。
 相手はそれで妻子を養っている(かもしれない)立派な職業人なのですから、やさしい態度で接しましょう。教師が秀れていたから伸びる子はいても、教師が悪かったから伸びきれなかった子の責任は、ほどんどその子自身の問題です。
 さて、本来語学は楽しきものなりで、例えば、それを操れば猫と話ができるとか、大熊猫(パンダ)とコミュニケートして恋の悩みを語り合う、なんてことができたら世の中どんなに広がるだろう、と思うココロのモティベーションだと思うのです。
 まず、何のために、英語って道具を身につけたいかを確認したらどうでしょう。
 英語がぺらぺら喋れたって、仏語がペラペラだって、別に人格的に偉くなるわけでもありません。それだけで秀れられるなら、全英語圏の人間は、全日本人より秀れものの人類になってしまうわけですもんね。
 英語学者、英文学者を目指すのでなければ、あくまで道具としての英語技術を見につけてやろうと思うこと。となると、物理や数学と違って、この英語というヤツ生きものですから、あんまり貯めおきができないんです。座しての沈思黙考学習より、体育に近い学習方法が効果的。
 とにかく毎日毎日、目と耳と口関係の筋肉を使うこと。教材は何だってかまいません。何万円もするリンガフォンは、出費の痛手が使命感を喚起するタイプの人には有効ですが、無理する必要はない代物です。
 教科書でもサブリーダーでも、英字新聞でも、巷にあふれる英語雑誌でもいいんです。
 大きな声をだして自分の口で発声して、自分の耳で聞く。手で書いてみる。何回も何回も。お手本の発音を耳で聞けるので、カセットつきの英語雑誌なんか便利かもしれませんね。好きなアーティストのレコードから一曲、なんていうのもいいですね。歌詞カードを、手で写し書いて何度も何度も、空で歌えるほどに練習する。LP一枚終わるころには、きっとなんとなく雰囲気ものが、心にわいてくるでしょう。
 ただし、毎日続けること。一日たとえ十分でも、これをやらんと寝た気がしない、と身体が覚えてしまうほど習慣づけてしまうのが、味噌。
 他にもいろんな遊び方がありますが、もし興味があれば、また局の方へでもお手紙下さい。お役にたてば幸いです。

 性の所為(せい)にはしないでね

 この時期は、本当にデリケートだと思いません?
 他愛の無いことに心が痛んだり、急にムクムクと社会だとか人生だとかに関心の窓が開いたり、異性のことも、知識としてのデートやセックスのメカニズムと、実際の行動とのバランスがとれなかったりして、・・・・・・アラ? おかしいですか、そんなに古めかしいですか?
 中学生や高校生売春だとか、ススんだ学園生活なんて耳にしますが、マジョリティーではないのでしょう? それとも、そこまではいかないまでも、男女交際(くすぐったい表記ですね、コレ)などはかなりオープンになっているのかしら。
 ポルノヴィデオだ、雑誌だ、映画だと、これだけお金と力を持っている産業界がアフッているんですもの、影響をうけないわけにはいかないですね、考えてみれば。
 それも人生の中で、初めてでかつ一番興味が鮮烈な時期ですもの。正常なホルモン軍団の指令ですから、無理な抵抗は身体に毒という考え方もありますね。
 T嬢の時代はまだまだ長閑(のどか)でした。投稿下校時に時間を合わせて一緒に歩く。ドキドキします、これだけで。ロッカーの中にイニシャルだけのお手紙が入ってることもありました。連れだって公園へ行くでも、喫茶店へ入るでもなかったです。恥ずかしながら、お茶やコーヒーなどを飲む喫茶店なるものに、女の子どうしでも一緒に集まってご歓談というパターンは、大学になってからのことでありました。旧石器時代を語るの古さですね、まるで(笑)。
 T嬢にもお友だちはいました。
 Tくん、元気してますか? 描いてくれたパンダの絵、まだ大事に持っています。Kくん、清里の寮でねんざした足はすっかりいいですか。Mくんは、外務省に勤務とか。得意の大ボラ吹いて対日関係に傷をつけないようにして下さい。それからくんは・・・・・・と、これが異性交遊録なら大したものですが、ハハ、フレンド・ボーイズとも呼ぶのでしょうか、大変お世話になった写真部の同期の男性陣です。この頁をお借りして、ながのご無沙汰失礼しておりますメッセージを述べさせて下さいませ。
              ・・
 A→B→C→Dという男女関係表記も、古っぽくなりましたが、ほんとうの話、Aなどはおろか、手をつなぐ電流のときめきすら、未だに、思い出として記憶されてるくらいの体験なのでした。
 アメリカやヨーロッパの高校生の性意識と比較すると雲泥の感ありですね。社会全体の性への解放度が極端に違うのですから当然ですが、生物としてのヒトの生理で、ピークとなる性意識を無闇に今までの日本社会のように、タブー化することはないと思います。
 甘く切ないため息や、身体の芯が熱くなる憶いと、どうぞ、おおらかに対峙して下さい。
 そのためにも是非、興味本位でない性知識を学習して下さい。
 ほとんどの子供たちが小学校高学年で第二次性徴の洗礼を受ける昨今では、高校生の年齢になったら、女子生徒ならば、自分の基礎体温の動きを知ることも必要なことかもしれません。直接的な性行為や避妊がどうの、という以前に、女性である自分の身体を理解し、健康的な身体づくりをしようとする態勢を養うことが大切だと思うのです。
                                                           ・
 男女がそれとなく分けられて、女子だけが生理の映画を見せられて、キューンとなった小学校時代とは違います。男子も、自分の雄のメカニズムをマンガや週刊誌で学習するにとどまらず、女性の身体のこともしっかり理解する必要があると思います。
 未知であるが故の初々しさは、その程度の頭脳の知識で水をかけられるようなもんじゃ、きっとないと思います。
 焦ることなどありません。養老院での老人セックスがどうのと、ついこの間も新聞でとりあげられていましたよね。この甘く切なく、ちとやっかいでもある自分の性(さが)とは、この先ずーっと長いおつきあいがあるんですもの。

 富士高、女5人組

 野球部を中心に甲子園へ燃え上がったり、全校あげて中野区の緑化だとか美化運動に参加してしまったり、あるいは、文化祭がとにかく華々しくって名物になっているとかとか、およそ学校全体としてもりあがるそうした活動のダイナミズムのダの字もない高校でした。
 かといって、ゴリゴリ個人主義が横行していたかというと、また違う。どことなく、友達のワッみたいな、ぬるさは漂っているんです。管理する側からみると、校内暴力もなく落ちこぼれもない可愛ゆい生徒たちだったのでしょうね。
 そんな母校と現在の自分を結ぶ、へその緒は何人かの友人の存在です。
  ・・・・
 女五人組と謳われた友だちの輪!
 Sちゃん、女子バレー部のキャプテンで立派な身体に、その上強い意志の人。中央大の法科に合格しながら、東大をめざす、と駿台予備校化通いを一年。見事合格、今は司法試験にもパスして修習生の修行中。やったネ、Sちゃん。女弁護士として活躍する姿が目に浮んできます。結婚だ離婚だのって時には是非ともよろしく。独身(のはず)。
 Hちゃん。一橋大の経済を卒業して編集の仕事をしばらくした後、大学時代のハンサムなボーイフレンドと結婚。ご主人の転勤で神戸へ。今は主婦で、来年は to be ママ。きっとチャーミングなベビーでしょうね。仕事はどうします? 当分おあずけかしら。
             ・・・
 N。ニックネームにちゃんはなし。埼玉大に通学しつつ、夏休みあたりからの駿台通いで、初心を貫き、浪人なしで東大の社会心理へ進む。なんと同じ放送局の食堂でバッタリ遭遇し、番組制作のプロデューサーになっていることを知る。修学旅行だ、交換日記だと懐かし話に花が咲く。つい先日、同業者と結婚。ご主人は地方局勤務なので、現在はお互いの仕事を続けるために別居生活中。何か面白そうな仕事があったら、どうぞご一報下さいな。
       ・・・
 I。同じくちゃんなし。慶応大の法学部で富士高での不足を補うほどに、青春を旅行にテニスにエンジョイしたという彼女。商社勤めの途中で社内結婚。当時もニューヨーク駐在だったご主人のあとを追って今年で五年目。アメリカでの出産を経験。また、ひとまわりもふたまわりも素敵なレディーになってることでしょう。子供は何語で育てているの?
 富士高同期の五人組。あなたたちを見ていると、富士高魂みたいなのがよーくわかるわね。当時も、そして最近の生き方を見ても、なんだか脈々と流れているじゃない?
 同じく都立育ちの母(府立第六高等女学校、現都立三田高校)がよく口にする言葉ですが、当人たちには解りません。寄れば、小市民的でスッキリしない学校だわね、ここは。いつも、こんな調子でしたから。
 
 この本が出る頃にでも、久しぶりにみんなに声をかけてみようかな。各々に増えた皺を見たくなりました。

 T嬢のルネッサンス史をちょっと
                      ・・
 さて、二年生の頃パチンと鳴って選択の意味に開眼し、己の道を選びたい、と叫んだ心はどうなったのか。
 傾向としては、やはり自分は文科に好まれるムキにあるというのが分かりつつも、数Vなどもとってみて、バケ学などもあきらめられず・・・・・・と結局、課目的にも他を捨ててそれをとるという勇気がなかった。それに没頭して深く追究したいと思うものにも、欲求にも、よし、賭けてみようと思う勇気にも、残念ながら出会えなかったのです。
 でも、一つのことを、専門的にさらに勉強を進めてみようという意欲のかわりに、細胞液のように、いろんな分野の細胞に浸透圧を自在に変えて接触し、入りこんでは、その相互関係や実態を他に伝えていく学際的アプローチができる人間になりたい、と強く思うようになったのです。 専門バカになれないけれども、広く浅く(深くにこしたことはありません)社会を鳥瞰図的にとらえつつ、虫瞰図的好奇心を生かせる仕事をしていきたい、と、斯様に思うようになり、ジャーナリズムを志向するに相成ったというわけです。
 莫大な設備と経済力と人力の三結合なくしてあり得ないテレビメディアを所有するのは不可能だけど、人に伝えるメディアのインパクトは映像が一番。ウム、それでは、私ひとりでも所有できるメディアはないか? 肩はばさえ通るところなら、チベットの山奥でも、南極でも持ち込むことができる、そうだ、カメラだ。写真部に入ったのもそんな動機でしたし、アメリカの大学院でフォトジャーナリズムを専攻することになったのも、この頃のおへその続きであったと思います。
 選択の決断をおススめしときながら、それができなかった症例の、でも、多分失敗には到らなかった例だと思って下さい。

 そう、ぬるま湯的だ、刺激がない、と文句を言っていた校風も、ひょっとしたら私を救ってくれたのかもしれないとも思えてきます。
 行動することに憧れて、ハードな意味を包含する言葉の行例に新鮮な発見の歓びを感じていたあの頃に、もし、外部組織と連なるようなしっかりとした活動や社会運動が存在していたとしたら、純粋にのめりこんでいっていたかもしれません。
 良かったのか、悪かったのかの判断は、いずれにしても、それを顧みる時点での自分の価値基準によるものだと思いますが、少なくとも今は、ぬるま湯っぽい中で鬱々と、試行や錯誤のジグソーを積みあげていた自分の方でよかったな、と思っています。
 思いっきりの運動で身体を鍛えなかったのは心残りですが、恋や遊びや旅行にバイトにと、若さを思うさまぶっつけて発散することがなかったから、今のような仕事をやり続けてこられたのかもしれないのです。
 つまり、あの時期に持っているエネルギーの勢いで、ある程度の社会的コンタクトを経験してしまうと、見えてくるものがあるでしょう?
 例えばアルバイトなら仕事のようすとか、お金を稼ぐってことの手応えや要領ですね。恋人のことにしても、夢中になったり、何人かとつき合ってみたりすると、大体のようす自分なりに分かってくるもんですよね。
 大概、当時かなり派手に動いていた人ほど、早めに自立して結婚したり、商売をはじめたりして、身をしっかり固めています。
 大学を卒業しても仕事につかず、大学院へ行き、院をでても、ジャーナリズムは現場を経験することなしには充分でない、とか言いながら論文だけは残しながら、通訳をやったり、雑誌の編集で物を書いたり、次はテレビの仕事に熱中したり。こんな学習モラトリアムを続けていこう、とトライする意欲は、きっとあの頃に燃焼しないで残っていたエネルギーのお陰かもしれないと思うのです。
 
 暗黒だと思っていたし、事実暗かったのだけれど、あの中世がなければ文芸復興(ルネッサンス)も決して華ひらくことはなかった――。
 自分にとっての富士高校時代を振り返るとき、いつも、この、大好きだった世界史で覚えた言葉が浮んでくるのです。
  
 嫌(いや)、と言うほど具体的な苦痛はなかったけれど、あの日々よもう一度なんてサラサラ思わない。重要なファクターでありながら、それは、やっぱり私にとっての薄けむたい時代であるようです。

 さいごのいっーぽ

 枚数が丁度になってココで止め! 書き終えて、突然不安です。
 なにしろT嬢がセーラー服を着こんでいた頃は、お隣の国、中国では文化大革命がはなやかでしたが、今では、その正義の素だった四人組が犯罪者となり、白が真黒に変わってしまうほどの変わりよう。
 社会全体を司(つかさど)る価値基準さえこの勢いです。時代の流れは、加速度的に速まっているのですよね。
  ・・・       
 現在の高校生活を送るあなたの状況を、何もわからずに書いてきました。ピンボケや、あまりにセピアだと思われる箇所には、どうか暖かな心の抱擁をお願いします。
 
 でも、これだけは確かなことです。広い地球の上には明日の命もどうなるかわからず、機関銃を手にゲリラ戦を戦う中近東の高校生や、飢餓や疫病におかされて、どこにも逃げようのないアフリカ諸国のハイティーンが、沢山いりのです。
 
 失恋や、試験の失敗、挫折感・・・・・・どうぞ絶望し、身体一杯の涙を流して下さい。中途半端に無気力になったりヘラヘラあきらめ笑いをもらさないで、そうめったにはお目にかかれないピンチの痛みを充分味わってみる。
 一度しかない人生です。きっと命を捨てるに価するようなピンチはなかなかないでしょう。今のところ、戦争もなく平和にみえる日本です。
 怒りや悲しみや失敗を明日へのエネルギーに換えて、だけどやっぱり、笑っていいとも!に大口をあけて笑えるあなたでいてほしいな。

 楽しい毎日、送ってください。じゃ、また。