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「第二郎先生と行く横浜散策」リレーレポート

 5月30日に行われた「第二郎先生と行く横浜散策」のレポートがまとまりました。先生の”授業”をしっかりととどめておこうという参加者の気持ちがこもった報告になりました。
 昨年11月、川島第二郎先生の和訳新約聖書の復刻版『志無也久世無志與」(しんやくぜんしょ)が発刊されたのを機に、その研究について富士高在学中のように先生に講義して頂き、さらに山手外人墓地ほか横浜に点在するご研究ゆかりの史跡をご案内頂こう!という企画。参加できなかった方も、先生の研究の一端が理解できるのではないでしょうか。


5月30日(土)に開催した横浜散策会のレポートです。(ものすごく遅くなってしまいましたが、ようやく完成しました!)参加したのは元3E12名、その他のクラス3名の合計15名です。

 この企画は、川島第二郎先生の和訳新約聖書の復刻版の出版をお祝いし、今年4月に開いた3Eクラス会から始まりました。
 71年卒業の先輩たちは昨年六本木ルーテル教会で記念会を開いたのですが、今回は川島先生が所属し先生の聖書研究の出発点となった石川町・日本バプテスト横浜教会で先生の研究についてのお話を伺うことになりました。世話人代表は、前日にサウジアラビアからふらふらになって(?)帰って来た三束君でした。
 まず1枚目の写真は川島先生と、講義を受ける*十年前の学生たちです!

*このレポートは当日見て聞いたことなど、順を追って一人一枚ずつ写真にコメントを付けていくことにしたいと存じます。NEXT解説Bunnyよろしくね!

佐藤弥生子

はいはい、では、続きを。

3Eの優秀な面々(ほとんど東大OBOG)に囲まれ、静かに授業が始まりました。きっと高校時代もこんな雰囲気だったんでしょう。3Dと違うな〜。
 日本バプテスト横浜教会は、18732月7米国北部バプテストから派遣されたネイサン・ブラウンジョナサン・ゴーブル両宣教師夫妻が来日し、本格的なバプテスト派の伝道が始められた教会です。同年3月2キリシタン禁制の撤去にあわせて山手203番で設立された横浜第一浸礼教会が前身です(ここまでWikipedia参照)
 震災や火事、戦争の被害など何度かの試練を経て、今コンクリート打ち放しのかっこいい建物になっています。

 
 第二郎先生は、そのN・ブラウン縁の教会で、現在翻訳の仕事をされているわけです。先生が富士高に赴任されたきっかけ(前の学校の校長が富士高に着任することになり、誘われたとのこと)や、71年卒業の先輩、我々、その後さらにその1クール下の学年を面倒見られてから教職を辞し、教会の仕事に従事されることになった思いを丁寧にお話くださいました。詳しいことはちょっと忘れてしまいましたが、翻訳を始められて、改めて「N・ブラウン牧師の業績をきちんと残さなくてはならない、これは自分に与えられた使命だ」とその出会いを受け止められたとのことです。

さて、1880年(明治13年)4月に出版した『志無也久世無志與(しんやくぜんしよ)』、確かにすごいです。所在が確認されているものが数冊しかないとのこと、自身が新しく発明したコズミック・アルファベットの活字を日本人の印刷所にわざわざ作らせ、それを使った注釈をつけています。それまで改行などなかった日本語表記に「改行」(だって、漢文にしろ、かな文字にしろ、昔の文はだらだらとお経のようにつながっていたのですから)、さらに「平仮名分かち書き」や「句読点」を用いた新しい表現を持ち込み、「言文一致運動」に影響を与えたとも言われているのです。
 じゃ、続きはキーコ、よろしく。

BUNNY こと 松村典子

 はいはい!では続いて・・・

バニー!すごい!ちゃんと話を聞いていたって感じが、ばっちり。

私は写真だと神妙に聞いていますが、「在学中はこのあたりの時間から眠気が襲ってきたものだった・・・」などという怪しからぬ思い出を浮かべつつ、聞いておりました。

明治13年出版の『志無也久世無志與(しんやくぜんしよ)』はなんと350万円もする上に、現存する貴重な数冊は、所蔵している所がどこも図書館の奥深くに大事にしまい込んでいるため、人の目に触れることが無い・・・という状況らしいです。

 先生は、今回の出版にあたって、できるだけ多くの信者に読まれるようにと願われ、私財を投じて1冊16,800円になさったという事でした。

「仕事は神様から与えられるもの」という先生の言葉に感銘を受けました。


私たち生徒も「神様から預けられた」のであって「校長からでも、教育委員会からでも無い」と言っておられて、あの頃は先生のそんな覚悟を知らずに、ふ〜ちゃら学校に通っていた・・・と今更ながら汗が・・・。

記憶にある先生の講義は、太宰を語る時も、漱石や川端を語る時も、生き生きと「人間」が文字から立ち上がってくるようで、興味をかきたてられたものでした。今回のN.ブラウンについても、アッサムでの生活、夫婦の在り方、晩年の日本での活動・・・その業績と共に人となりが偲ばれ、この後お墓を訪ねたときには、ご縁のある方のお墓を参るような気持ちになりました。

先生の講義のあと、散策に出かける前に階下の控室で一休み。

「家内です」と紹介された奥様は、小柄な物静かな方で、私たちにお茶の用意をしてくださっていました。美味しいお茶と、寛ぎのひとときに感謝です。

 先生ご夫妻は、信仰を通じて結ばれたご夫婦で、先生が矍鑠として翻訳を続けておられるのも、この奥様の支えあればこそ!と思われました。

では、続きよろしくお願いします。             キーコ こと 池田恭子


 川島先生にご講演いただいた日本バプテスト横浜教会をあとにして、横浜海岸教会に向かいました。当初の予定では先に山手外人墓地を回ってからと考えていたのですが、横浜海岸教会を開けておいていただく約束の時間が迫っていたため、先に伺うこととした次第です。

日本バプテスト教会からは徒歩で15分ぐらいでしたが、川島先生は大変ご健脚で、のんびり話しながら歩いていくと、置いて行かれそうになりました。

日本バプテスト横浜教会は日本最初のバプテストの教会であり、プロテスタント教会としては日本で2番目の古さですが、横浜海岸教会はそれに先立つ日本最初のプロテスタント教会で、1872年の創立以来、140年近い歴史があります。プロテスタント各教派の中で、こちらは改革派・長老派の教会になります。

現在の教会堂は、関東大震災の被害の後、1933年に再建されたもので、石造りの端正な建築でした。驚いたのは内装の簡素さで、キリスト像やマリア像はおろか、十字架も見当たりません。強いて言えば、建物のあちこちに斜め十字のレリーフが見られたことで、一般的なローマ十字に代わるものとして使われたのではないかと思いましたが、教会堂管理人の方に伺ってもはっきりしませんでした(写真では見にくいのですが、二階の手すり部分に斜め十字のレリーフが連続して刻まれています)。(注)



(注)帰宅後、気になって調べてみたところ、最初はアイルランドの守護聖人セント・パトリックに因む(実は嘘らしい)とされるセント・パトリック・クロスではないかと思ったのですが、アイルランドはカトリック国で改革派・長老派とは全く接点がありません。セント・パトリック・クロスは赤字に白の斜め十字なのですが、どうも青地に白斜め十字のセント・アンドリューズ・クロスの可能性があるかもしれないと思うようになりました。


 こちらはスコットランドの守護聖人に因み、スコットランドの国旗にも使われています。改革派がスコットランドに伝わったものが長老派ですから、長老派とスコットランドとは縁が深いと言えます。ただし、調べた範囲では、セント・アンドリュー(ギリシア語に基づく日本での慣用読みは聖アンデレ)を聖人として崇敬するのはカトリック教会、正教会、聖公会であるとされており、長老派との関係はわかりませんでした。 
 実は、斜め十字をキリスト教の十字架の一種と印象づけられたのは、山梨県清里高原の清泉寮の教会で見たからなのですが(高校1年生の清里合宿で行ってソフトクリームを食べた記憶があります)、この教会も清泉寮のHPを通じて確認したところ、聖公会の聖アンデレ教会で、開設した米国の宣教師ポール・ラッシュも当然ながら聖公会所属、聖公会にゆかりのある立教大学で教鞭を取っています。

 ちなみに立教大学の英語愛称はセント・ポールズ・ユニヴァーシティですが、同じく聖公会ゆかりの桃山学院大学は英語の正式名称がセント・アンドリューズ・ユニヴァーシティで、校章にもセント・アンドリューズ・クロスが使われています(一番有名な在学者は谷村新司でしょうか。堀内孝雄とやしきたかじんは同系列の桃山学院高校を卒業していますが、それぞれ京都産業大学と龍谷大学に進んだ由で、桃山学院大学には行っていません。ピーターこと池畑慎之介は桃山学院高校中退)。

さらに脱線しますが、ゴルフの聖地と言われるセント・アンドリューズ・リンクスはスコットランドのセント・アンドリューズ市に在り、この市の市章はセント・アンドリューズ・クロスそのもの(つまりスコットランド国旗と同じ)で、ゴルフ・リンクスのHPに出ているエンブレムにもセント・アンドリューズ・クロスを前に掲げた聖アンデレとおぼしき人物像が使われています。この人物像は2本のゴルフクラブを斜めに交差させた上に載せられており、2本のゴルフクラブとセント・アンドリューズ・クロスがちょうど重なって見えます。
 セント・アンドリューズ・クロスは聖アンデレが殉教する際に、イエスと同じ十字架では畏れ多いので、違う形の斜め十字にはり付けてもらった伝説に由来しているのですが、そのことも併せて考えると、このゴルフ・リンクスのエンブレムでは、聖アンデレが2本のゴルフクラブにはり付けにされているようにも見えます。しかし、そのようにゴルファーをからかったものと想像するのは、さすがに行き過ぎでしょうか(来年の全英オープンはセント・アンドリューズでの開催ですが、今度こそ、還暦を迎えたトム・ワトソンに優勝してもらいたいものです)。

ともあれ、長老派とセント・アンドリューズ・クロスの関係はよくわからないままなのですが、『ダヴィンチ・コード』『天使と悪魔』のロバート・ラングドン教授をまねるつもりはないものの、宗教建築の意匠に宗教的意味がないものが使われるとは考えがたいので、やはりセント・アンドリューズ・クロス説が正しいのかもしれないと考えているところです。

西洋紋章学ないしキリスト教図像学に関する脱線が長くなったので、横浜海岸教会での見学の様子については、次の熊さんにお譲りします。

                                          入江一友


 横浜の中では海岸教会のほかに、先生のバプテスト教会、それに指路教会が有名らしく、先生ご自身はひょんなことからバプテスト(教派)の歴史を研究することになりましたが、海岸教会の改宗派が母教会であったそうです。「本当ならこの教会の教会員になっていたはずなのですが・・・」とちょっと残念そうにお話しされていらっしゃいました。

  


 鐘楼はとても明るく、試しに鳴らさせていただいたその音にも驚きました。

毎週日曜日の礼拝には合図としても鳴り渡らせているとのことです。その鐘楼からは大桟橋はっきり見えました。逆に桟橋に降り立った当時の外来の人々はこの教会のたたずまいを見て、随分心を落ち着かせたのではないでしょうか。

この後開港博物館の展示を鑑賞。昔の横浜の風景や地図などを見て回りました。

ちょっと天気が崩れてきてその後タクシーに分乗して外人墓地に訪れたのですが・・・・。         熊崎 崇洋 


 開港博物館見学を終えて、横浜外人墓地へ。小雨が降り出しタクシーに分乗。墓地は週末には開放されているということでしたが、訪れる人は少なく雨の墓地の佇まいは横浜市街のにぎやかさから離れてひっそりしていました。
 先生のご案内によりネイサン・ブラウン夫妻が眠っている墓所へ。

ロシア、ギリシア、韓国、中国とさまざまな国のお墓、荒れたまま、傾いたままになっているものも多くありました。祖国から離れて、お墓を守る縁者はいないのかもしれません。日本という国に尽くして眠りについたネイサンの墓所を訪れ、つかの間思いを馳せたわたくしたちでした。ロシア出身のバレリーナ、エリアナ・パヴロワの美しいお墓(写真下)にも立ち寄りました。













 広大、かつアップダウンのある墓地を颯爽と歩いてわたくし達を案内してくださった川島先生。健脚ぶりは、ここ7年間毎日続けていらっしゃるスクワットなどの筋力トレーニングの賜物とか。先生の講義を受けつつの外人墓地めぐりも元町出口で終了。
さぁ、オナカもすいていよいよ中華街へ!     

鈴木眞理

先生は、冒頭の教会での講義から、海岸教会・開港博物館・外国人墓地と僕たちを案内してくださりながら、ほとんど絶え間なく説明を続けてくださり、ご年齢からは想像できないパワーに、完全に圧倒されてしまいました。僕は中華街へ行けなかったのですが、別れ際に先生から「元気がないじゃないか。どうしたんだ。」と言われてしまいました。

さらに、この散策から数日後、わざわざ先生からお葉書を頂いてしまいました。僕が元気ないことを心配くださってのことでした。本来なら、こちらからすぐお礼状を差し上げるべきところ、誠にもったいないことで、さっそくご返事を出しました。(僕はろくに手書きができなくなってしまっているので、仕方なくワードの14ポイント縦書きでA4二枚でした。) そうしたら、今度は、先生からすぐに便箋六枚にも渡る万年筆のお手紙を頂いてしまいました。主に信仰を勧める内容で、「散策」のときにも、よっぽどみんなにも勧めようかと思っていらしたのだそうです。

そうそう、先生の出されたご本は、ここに掲載されています:

http://www.shinkyo-pb.com/history/post-1003.php

新教出版社で、先生の著作を本として出版してくださった方は、先生より十歳近くも年上の九十歳の方で、「最後の一仕事」と思ってお引き受けになったのだそうです。

さて、『志無也久世無志與』の題名は、ご覧の通り万葉仮名です。明治初期の当時にあっては、平仮名では「女子供向けの本」であるとの誤解を受ける恐れがあったので、それを避けるために万葉仮名(漢字=本字=真名)にしたのだそうです。題名に対して、本文は変体仮名で、それが文節内ではつながっており、松村さんが書かれている通り、文節単位に分かち書きにされています。これは、ネイサン・ブラウンが宣教師であると同時に言語学者でもあったことと関係があります。ネイサン・ブラウンが来日したのは明治六年で、その前にインドのアッサムで二十年ぐらい伝道しています。そのときにはアッサム語に聖書を訳しています。日本に来たときは既に六十五歳でしたが、言語学者であった彼は、日本語もたちまち習得してしまい、表記法まで考案した訳です。

参考: http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_488/yurin2.html

つながった変体仮名は、僕などには到底読めません。昨年11月に71年卒業の先輩たちが六本木ルーテル教会で記念会を行ったときは、金春さんという方がこの難しい表記の一段落を朗読なさいました。その記念会では、講義の最後に先生が、「誰か、買う人はいませんか? この際、変体仮名の勉強でもしたらどうですか?」と冗談半分におっしゃいました。

                                                                      小林泰でした。

 

 

先生のご説明で、外人墓地が当初、増徳院というお寺の外れからスタートし、下から上へと拡がっていったという事実は、新鮮な驚きでした。http://www.yfgc-japan.com/history.html きっかけとなった最初の埋葬者が不慮の死を遂げた黒船艦隊の水兵君であり、また島津藩との生麦事件を引き起こした粗暴なリチャードソン某が葬られていることも初めて知りました。

また、ネイサン夫人の墓所が、山手の丘にある彼の住居からまっすぐ見える場所に設けられたということも伺い、しんみりしました。こうしたことも含め、先生が詳細に把握しておられることに、先生のネイサンの人生そのものへの深い思いを感じます。

それにしても、運営財政難の外人墓地に、何と中華パワーが近年滔々と押し寄せている(古い小さな墓石を脇にどけてしまう)実態を目の当たりにし、現下の中東アフリカにおいて形振り構わぬ中国の資源外交ぶりを見ている人間としては、これも強烈な光景でした。

さて、薮蚊を追い払いつつ静謐な外人墓地を出ると、そこはお洒落に賑わう元町商店街の外れ。先生以下8人でパンの喜久屋の角を曲がり、前田橋から中村川を越えて、中華街までそぞろ歩きます。小雨にもかかわらず、土曜の夕方とあって大変な人出です。

安くて美味くて、さらに週末でも席だけ押さえられる(コース予約不要)という店はかなり限定されますが、市場通りの「海鮮 酔樓(すいろう)別館(べっかん)」が、そんな貴重な一軒です道がえらく混んでるので関帝廟や教会跡などにも寄り道せず、時間通り6時に到着。

あえてコースは取らず、その日の湘南・三浦などの地魚を、清蒸(中華姿蒸し)、姿揚げ、姿煮の加熱法と味付けを好みで選んで組合わせます。

とにかく蒸し暑かったので、まずはビールビール。うまい!中華風の鯛の刺身(カルパッチョ)など、前菜だけで進む進む。先生も少し聞し召されます。いよいよ魚が登場。世話役の独断と店長のお勧めで、珍しいホッケの姿揚げの香味ソース和えに、カレイの清蒸(姿蒸し)を。ビールも紹興酒に切替えです。

「洗礼」と「浸礼」の違い、ヘボンとネイサンの対立など、「生徒たち」との質疑応答に始まって話が盛上り、酒が進むにつれて先生から当時の秘話?なども語られました。大秀才入江君を筆頭に我ら27期への過分のお褒めの言葉があり、まさにその出会いこそ神の導きと解されたこと。そして「優秀なる」教え子たちに再会しても恥ずかしくないだけのライフワークを手がけたいとの思いで、聖書研究を続けて来られたとのご心境披露には、胸が熱くなりました。もちろん第二郎先生らしく、「学園紛争の余波を食らった23期に比べれば、何の迷いや雑音もなく勉強に専念できた君ら27期は本当に幸せ者」との、ちょっぴり辛口のコメントもあり(苦笑)。とにかく三十五年前の我々生徒や親との進学相談などを、昨日の出来事のように鮮明に記憶し、かつ我らのキャラクターを的確に洞察されているのにまたまた驚きつつ、本当に偉大な恩師に巡り会えた幸運を改めて噛み締めた次第です。

極めてリーズナブルなお勘定を済ませ、相変わらず賑わう中華街の喧騒に出た我々ですが、「お土産を」との声に応え、最寄の「頂好」売店にて名物のゴマ団子など買って、石川町駅へ。

三束はそのまま、先生と根岸線下りに乗って、港南台までご一緒しました。車中、やっぱり先生の多大の関心事は、我々かつての生徒ひとりひとりの近況でした。

開港150年に沸く横浜ですが、その発端となった場所のタブの樹、思いがけず撞けたNew York Foundry社謹製の130年前の鐘、幾千の信者さんたちの熱意に支えられてきた教会、意外なことからスタートした外人墓地などなど、知らなかった魅力を先生のご案内で発見できました。

新宿そして横浜、三十五年目にして初の3Eクラス会、大成功でした。言い出しっぺで一番汗をかいてくれた畏友入江君に再度深謝深謝しつつ、愚筆を置きます。

三束尚志

なお、皆さんから私の貧弱な記憶を掘り起こすメール、ありがとうございました。その中でバニーと入江君から、「バプテスマ」に関する専門的なコメントがありました。私自身は何らコメントする知見がありませんが、家内の実家がカトリック、また息子が行っている地元イエズス会の学校でキリスト教に親近感があること、今の仕事でイスラム教・ユダヤ教・キリスト教のいずれも、旧約聖書を同根とする「啓典の民」であることを実感していることもあり、「楽屋うち」で埋もれさせるには勿体無いので、ひとまず下記抽出して収録させて頂きます。また、勝手ながら愛嬌で、畏友入江君を先生が褒めまくったくだりも抽出してしまいました(ご寛恕!)

(三束)

 

Quote

BUNNYさまコメント)

(あ、それから散策レポートにちょっと補足したいと思ったことを書きます)

横浜教会で先生の講演を聞いて、バプテスト(バプテスマ浸礼)に対して、今回ほんとに良くわかったということです。

キリスト経でよく「洗礼」とはよく言いますが、バプテストは「浸礼」なんですね。

我々が普通イメージする水をちょっと振り掛ける「洗礼」と異なり、全身を浴槽のようなものに沈めてしまう「浸礼」とでは、全然レベルの違うことで、N・ブラウンはそのことで翻訳のときに妥協ができずに、ヘボンとの競争に敗れたんですね。

その昔、私の友人の障害のある男性が、洗礼を受ける、というので、立会いに行ったことがあるのですが、そのとき見た浸礼のシーンに実は私少なからず、ショックを受けた記憶があったのです。そのときは、よくわかっていなかった。(さらに加筆:「生まれ変わるとは、どういう意味なのか。障害を先天的に与えられた彼こそ、神に選ばれしものだから、そんな必要はないんではないか」、「何のためにこんな洗礼(実は浸礼だけど)をすることになったのか」とそばにいた人に説明を求めてしまったのです。で、納得のいく説明がその時得られなかったわけ)

だから、散策も終えて、料理もひとしきりいただいた後に、先生に「N・ブラウンは、なぜ敗れたか」その理由をたずねずにはいられませんでした。

(だって、あんなにすごい仕事をしながら、日本ではヘボン式ローマ字が流布し、聖書もヘボンの翻訳ものが採用されて、ブラウンの名前はあまり残らなかったのですから)

年齢的に争う意欲がなかったか(70を超えていた?)、根回し的な政治力が不足していたか、奥さんがだめだったか、とか先生にとってはあまり興味のないことだったようですが、私は、そういう現実の人間の仕事の仕方に興味がわいてしまいます。

そもそも聖書が、年代、地域を重ねるごとに、翻訳などを通して変化し、最初のものと変わることに危惧していたN・ブラウンの、原点にこだわる姿勢にその理由があったのですが、それはすごく大事なことのような気がするのです。日々いい加減な自分も、本来そのものが持っている理由をもっと大事にしないといけない、と改めて思ったりしたわけです。

 

最後に記憶に残っているのは、川島先生が、入江君をとにかくほめるんで、だんだん茶化したくなっていって、お店出てからプルと声を合わせて「ひいき!ひいき!」と入江君に吠えちゃったことでした。アルコールのせいなのよ、入江君、ごめんね(笑)

 

(入江君コメント)

 私も川島先生のお話を伺って「洗礼」と「浸礼」の違いがようやくわかってきた気がします。

 自己流の解釈ですが、「浸礼」は水に沈むことにより、信仰のない古い「自分」が死んで、信仰を持った新しい「自分」に生まれ変わることを意味しているのであろうと思います。キリスト教の信仰は自らの罪を自覚するということでしょうから、自然状態で無邪気だった人間が罪を自覚することに意義があるのでしょう。したがって、罪の自覚など期待できない「幼児洗礼」は意味がないことになるのかもしれません。

 これに対して「洗礼」(しずくを垂らすだけの儀式は「滴礼」というそうです)では、「洗う」という言葉により、罪が消し流される意味が生じてしまい、本来のバプテスマとは正反対になってしまいます。カトリックでは免罪符を売り出したくらいですから、そのような意味での「洗礼」には違和感がなかったのかもしれません。日本では自然状態の人間こそ罪や穢れから逃れられているという土着的信仰があり、一旦、罪・穢れが身に付いても水で洗い流す「禊ぎ」によって清らかな自然状態に戻れると信じられてきましたから、「洗礼」という言葉にはすぐ馴染めたのでしょう。布教上の観点からは、ヘボンが「洗礼」に固執した理由がわかるような気がします。

 

 当日は川島先生から随分お褒めのお言葉を頂戴して面映ゆい思いをしましたが、クラス会開催に向けていろいろ作業したことを労っていただいたのだと理解しています。

Unquote

 

 

尚、写真などを見ても「誰だかワカラなーい?」という同窓生の皆様のために・・・というより、忘れっぽい自分自身のためにも、当日の参加者を明記してこのレポートを終えようと思います;

入江一友、熊崎崇洋、小林泰、三束尚志、吉原正人、井上龍子、一ノ瀬(川瀬)裕子、菊地(栗田)まゆみ、佐藤弥生子、榊原(佐藤)和加子、池田(松尾)恭子、田代(三浦)奈緒子、松村(宇佐美)典子、鈴木(下川)真理、大山晃司、川島第二郎先生

 

2009年8月18日