関連記録
矢板市史に八方ヶ原越えの塩原山道に関する記述がある。江戸時代に会津から尾頭峠を経て塩原の里に運び込まれた物資の一部は八方ヶ原を越えて現在の矢板市・上伊佐野方面にもたらされていた。すなわち、八方ヶ原越えの脇街道があったというのである。室町時代には既に存在していたことを示す古文書が現存するという。最も交通量が多かったのが、古五十里湖が出現し決壊するまでの約40年間であり、高原山麓の平野村(後に離散)が宿場として栄えたという。塩原側のルートは塩の湯を通っていたというから、鹿股川沿いの現在の八方ハイキングコース以外あり得ない。では、矢板側のルートはどの尾根上にあったのか?八方ヶ原から矢板市方面に下る尾根は幾筋もある。矢板市史では塩原山道→奥村道→現在の下塩原矢板線と変遷したように記述されているが、果たしてそうか?高原山の旧登山道に興味を抱き、これまで、嶽山箒根神社参拝道、明治の薪炭搬出を目的とした奥村道、八方ヶ原ハイキングコースの道跡等を探索したが、江戸時代の街道跡に相当するような道跡は目にしていない。
八方ヶ原から南東方向に下る尾根で唯一未探査の尾根が木ノ芽沢と唐滝沢に挟まれた矢板市と那須塩原市の境界尾根(ここでは便宜上、木ノ芽沢左岸尾根とする。)であった。木ノ芽沢はほとんど登山者の入り込まない谷で、昭和四十四年の矢板岳友会の発足記念山行の記録がWeb上で目にする唯一の情報である。何年か前にこの情報を目にして、木ノ芽沢左岸尾根の上に道があることは知っていた。記録上は登山道として記されているが、地図上に破線は無い。尾根が狭く道を設けるにはあまり適しているとは思われないし、高原山の登山目的としては地理的に不自然で、仮に道があったとしてもかすかな辿道程度であろうと思っていた。ところが、この尾根の末端にある田代山を訪れた時に、偶然、植林地の中で江戸時代の馬頭観音と遭遇して、木ノ芽沢左岸尾根が探索対象として急浮上したのである。
11月13日は9月の3連休以降で初めて快晴の休日となった。早朝から出かけたいところだが、車検に出した車を引き取ってからの出発なので遠出は無理。塩原に行ったら渋滞で時間不足になるのは確実。よって、近場で街道跡探索することにした。木ノ芽沢左岸尾根を辿って八方ヶ原へ至り、帰りは@学校平経由で八方ヶ原ハイキングコース跡を辿って上伊佐野へ下る、若しくはA嶽山箒根神社参拝道跡を辿って金沢ランド奥から唐滝沢沿いの林道へ下る計画である。
11時14分 歩行開始(標高約325m)。 周回目的なので、農地横に車を置いて、田代山登山の時に使った林道を歩いて植林地に進入し、尾根筋を目指した。林道は尾根の反対側に抜けているようである。林道を離れて尾根に上がろうとしたが、尾根上にアズマネザサの藪があったのでこれを嫌い、しばらくは中腹の作業道を伝って奥へ進んだ。作業道の最高点から尾根に上がってみると、給水施設のようなものがあり、尾根の反対側にはすぐ足元に建物が見える。所持していた地形図が『高原山』のみだったので判らなかったが、後で確認したところ414mポイントであったらしい。
スギの植林された尾根上には境界杭に沿って幅1m未満の浅い窪みが続く。茨藪になっていて歩きにくい。尾根を西進して鞍部から一気に80mほど急登。勾配が緩くなると境界線から木ノ芽沢側には茨藪が無くなり、スギの植林地の中を快適に歩けるようになる。木ノ芽沢砂防堰堤と「水と緑の広場」を見下ろしながら順調に尾根を北西に辿る。尾根の南西側(木ノ芽沢側)は勾配が急なので稜線部は明るく開けた印象。藪は無い。一方、北東側は一貫してスギの植林地帯であり、茨やアズマネザサが生えている。北進する区間は道跡から外れるのでややモミの幼樹の藪がうるさい。その後は再び境界線上に道跡があり、モミの大木が残されている区間やミヤコザサの美しい場所を経て、ほとんど高度を上げずに西進する。
12時25分 巻き道現る(標高約580m)。 尾根の高度が上がり始める場所で、忽然と木ノ芽沢側に巻き道が出現する。それまで辿ってきた境界線上の道は長年の往来で自然に窪んだものであったが、巻き道は明らかに計画的に建設されたものである。それまでの道とあまりに対照的なので忽然と現れたように感じたのであるが、良く探せばどこから上ってくるのか見つけることができるであろう。矢板岳友会の発足記念山行の記録の略図には、木ノ芽沢林道の2番目の橋の手前から尾根に上がる破線路が記されている。この辺りは傾斜が緩くスギが植林されているので、植林地の中に木ノ芽沢から尾根に上がる道が残っていると思われる(2006年に木ノ芽沢の金刀毘羅橋の袂からスギ植林地の中を登って尾根に上がる道筋を確認。)。
698mポイントの南側まで、巻き道の下側がスギの植林地帯となっている。その先、木ノ芽沢側に植林地帯は無い。地質学に疎いので岩の分類はできないが、この尾根の岩質は脆く、簡単に開削することができたと考えられる。決して幅広ではないが、幅1.5m程度の平坦な道がきれいに残されている。2箇所で小規模な崩落区間があるが、さほど危険は感じない。
標高750m付近で現れた崩落区間は大規模なもので、激しい浸食が谷底から尾根直下の道跡まで進行している。周囲に比べてやや硬度の高い岩がモコモコとむき出し状態となり奇妙な景観を呈している。この浸食の様子から、道が建設された時代が古いことが推測できる。見晴らしが良く、眼下には近年延伸された木ノ芽沢林道の終点と若い植林地が見える。この崩落区間はさすがに危険なので、稜線に上がって迂回。標高830m付近では道跡はモミの生えた丘陵状の尾根上にあり、落ち葉を踏みしめながら登っていく。
標高880m付近で再び尾根が狭まり、木ノ芽沢側の急斜面にある道跡が大規模に崩落しており、続きが見えない。ここも稜線部を歩いて迂回しようと思ったが、なんと反対側も激しい浸食が進行中で、尾根が分断されかかっている。稜線部は脆くボロボロに崩れ落ち、掴まるものが無い。中倉山の仁田元沢右岸の超痩せ尾根並み。数m先には樹木が生えていて、木の根が張り出しているので、ザレ場で滑落しなければ尾根歩きを続けることができそう。しかし、成功率100%とはいえない。右も左もはるか下方まで浸食されているため、一旦下って登り返すことも不可能。
13時24分 稜線崩壊地にて撤退(標高約890m)。 もう少しで木ノ芽沢左岸尾根歩きが完結するというのに、無念の退却決定。いくら脆い岩質とはいえ、ここまで浸食が進むには長い年月が経っているはずで、過去数十年以内に登山道として設けられたものでないことは確かだ。
さて、尾根周回が早々とオジャンになったので、時間はタップリある。木ノ芽沢林道を歩いて帰ることにした。まず、標高690m地点まで戻り、勾配の緩い尾根を南に下る。この枝尾根の広葉樹林の中にはかつてモミの大木を伐採した跡が幾つか残っている。非常に古い切り株で、ワイヤーの類は無い。木ノ芽沢側に降ろすことは考えられないので、唐滝沢側に搬出されたのではないだろうか。どんどん下っていくと勾配が急になりついに断崖の上に出た。まっすぐは下れないので、少し戻って東側の支沢に下り沢底を下って木ノ芽沢へ出た。
14時12分 木ノ芽沢へ降下(標高約580m)。 なかなか素晴らしい山岳渓流である。そこそこ水量があり、大きな岩が連続する。イワナもいる。
林道は右岸側にある。しかし、右岸側はずっと崖に近い急勾配になっていて上がるのに適した場所が無い。右岸側には石積みが残されている。昔は沢沿いに炭焼き道でもあったのかもしれない。細い道跡は藪化してしまっている。細い沢が流れ込んでいるので、沢をよじ登って林道に抜けた。
14時31分 右岸の木ノ芽沢林道へ出る(標高約600m)。 崩壊地から見た木ノ芽沢林道終点が気になり、せっかくの機会なので終点まで行ってみた。平成十二年にスギの植林をするために林道を延伸したらしい。植林後は手入れされておらず、部分的に荒れていて車の通行は不能。
14時45分 木ノ芽沢林道終点到着(標高約670m?)。 終点からは矢板方面が見渡せる。終点から奥へ向かう踏み跡はない。
昔の木ノ芽沢林道の終点までは沢に近いところに道があるので、渓相を見ながらゆっくりと戻った。2番目の橋近くが一般的な入渓地点らしい。イワナの姿を多数目撃。第一の橋と第二の橋(金刀毘羅橋)の中間地点のスギ林の中に、丸い大きな岩の上に建立された苔むす山ノ神を発見。祀る人は絶えたらしい。建立年代は不明。「山神社」と彫られている。
林道を抜け、市道を歩いて出発点に戻る。2001年に同じ道を歩いたときは、前山採草放牧場横の長い下り坂で足裏のまめがつぶれそうでとてもつらかったものlだが、今回は爽快。
16時13分 車に帰着。
どうも最近は一発で探索完了とならない。11月15日から狩猟が解禁なので、もう高原山の藪歩きはおしまい。この尾根の残りの探索は来年以降に持ち越しである。
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