| 林道黒沢-尚仁沢線の峠から尚仁沢を眺めると、入り口は狭いがその奥に何かがありそうな雰囲気である。尚仁沢奥の地理の把握、山菜探し、花の写真撮影を目的として尚仁沢奥に入り込むことにした。時間は良く覚えていないが、砂防堰堤工事用の車道入り口に着いたときは既に2台の車が停まっていた。このときは山菜採りに来た人の車だと思っていた。春の陽気でとても気持ちが良い。まさかこの日、沢ではなく山中で遭難しかけるとは思わなかった。 車道を1km歩き、終点の砂防堰堤から入渓した。ここから先は常時水が流れている。水量は少なく、普通のスニーカーでも岩伝いに歩くことができた。数百m進むと右岸に踏み跡がある。左の岩壁下を抜けてほどなく右手に大きな涸れ沢が現れる。左手の尚仁沢との間は樅の木が生えている歩きやすい場所である。古い薬きょうが落ちていたので、ハンターも訪れるらしい。ここから先は谷が狭くなり、ほとんど岩伝いに遡行することになる。山菜はミズナが少々、花はゴヨウツツジが目立つ程度である。一箇所、狭くて淵になっている場所があるので左側(右岸)を巻く。その先には小さな滝が存在しており、右側の岩壁に人為的につけられた棚を伝って上に出られる。尚仁沢はくねくねしているため見通しがきかない。もう少し行けば何かあるのではないかという期待で奥へ奥へと進んだ。
尚仁沢が二手に分岐する場所まで進んだ時、前方に先行者を発見した。渓流釣り師であった。どちらに進もうか迷っているようだったがそのうち右手に入っていった。どちらも水の流れがあるが、右側の沢のほうが主川のようである。釣りの邪魔をしてはいけないと思い、それ以上先に進むのをあきらめた。往きも帰りも同じところを通らなければならないのが沢歩きのつまらないところだ。尾根伝いに戻ることはできないかと思って谷の上を見上げると、ほとんどは崖であるが上にいけそうな場所を見つけた。堆積物が少ないので崖崩れの可能性も少ない。しかし草を掴んでかろうじて登れる急斜面なので、一旦登り始めると下りるのは危険なので上に行ってしまうしかなかった。やっと崖を登りきると石板が敷き詰められた道のようなものがある。やれやれこれで楽に歩けると思いきや、これは道ではなく自然にできたものであった。さらに上に行くしかなかった。
やがて、樅の木が生えている平坦地に辿り着いたが、その背後に断崖が現れた。樹間から廻りの様子を見ると、どうやら断崖下の広い棚場に出たらしい。万事休すか。自分の状況に合わせるかのように天候も変化しつつあり、対面の前山はすでにガスがかかり始めていた。廻りにはシカが訪れた形跡がある。ということはどこか上に行くルートがあるということを意味している。腹が減っては戦ができぬ。女房に作ってもらった中華風炊き込みご飯の握り飯を2つほおばり、上に行くルートを探した。シカ道は発見できなかったが、木々が生えていて取り付く物が多そうな場所を選んで崖をよじ登った。かなり腕の力や腹筋を使うがどうにか登りきり、シカの糞が見られる林を抜けると、そこは尾根上ではなく広い笹原の縁であった。
一難去ってまた一難である。目指す尾根は笹原の遥か彼方で、現在地よりもっと高い。左手上方には剣ヶ峰のガレ場が見える。自分のいる場所は、前年の暮れに剣ヶ峰から見下ろした広い笹原なのだ。賽の河原に向かうのが最善策と思われたが、シカ道はすぐに途切れてしまい、深い笹薮を漕がなければならない。これが脚の疲労を倍増させる。ついに両足のふくらはぎが痙攣してしまった。岩を飛び跳ねながら沢を登ったので脚に疲労が溜まっていたのだ。呼応するかのようについに雨が降り始めた。このとき頭の中に遭難の2文字がよぎった。もともと適当に沢を歩くことしか考えていなかったので、雨合羽も持っていない。山歩きに関しては動物的勘があると自認していたのだが、今回は完全な判断ミスだった。山に登って後悔したのは初めてだった。
このまま笹薮を漕ぐのも尾根に向かうのも危険と思われたので、尾根の手前にある浅い涸れ沢伝いに下ることにした。沢底は基本的に岩盤で歩きやすく、順調に下れそうに思われたが、突然断崖で途切れてしまった。先ほど登った断崖の右側の延長なのだが、さらに険しい。さすがにこのときは山中でくたばるのを半分覚悟した。ここを下れば尚仁沢につながる大きな涸れ沢に出られるはずなのだが、すでにガスがかかっていて見通しがきかない。途中までは下りられそうだが、行き止まりになった場合は現在地に戻ってくる体力は残っていない。既に全身ずぶ濡れで、雨脚も強まっている。崖下が口をポッカリ空けて死の世界に誘っているように見えた。
尾根上に出ることが残された唯一の選択だった。ガスがかかる前に見た様子では途中に崖は存在していなかった。どんなに時間がかかっても最終的に車に辿り着ければ良い。脚が攣らないように慎重に急斜面の藪を漕ぎ上に向かった。時間はかかったが見覚えのある見晴らしコースにどうにか辿り着いた。道は確保できたので、あとは体力勝負である。やっと遭難の2文字が薄れてきた。青空コースへの近道があったが、ガスの中、知らないコースを辿るのは危険なので、遠回りの確実なコースを辿った。天気さえ良ければ青空コースはさぞ気持ち良いであろうが、ずぶ濡れで一度攣った足でとぼとぼ歩いているので余裕など全く無い。尚仁沢東尾根伝いの登山道があるはずだが見つからないのでそのまま進んだ。ミツモチ山の休憩所の横を通り過ぎたとき人の声を聞いたような気がしたが、こんな状況で人がいるはずがない。空耳だった。
昨年暮れに通った少年自然の家から登るルートで下山したのでは遠回りになるので、県民の森に抜けて尚仁沢林道を経由して尚仁沢に戻ることにした。既に体は冷え切っている。手も冷たい。最後の握り飯を大事にとっておいてよかった。最後のエネルギー源を補給して登山道を下った。もうじき尚仁沢林道にぶつかるのではないかと思ったころ、右手に植林の時に使った車道跡があった。さらに近道となる方角なのでここを下ると、眼前にシカ食害対策の立派な防護フェンスが現れた。これを避けて遠回りするのはつらいので針金を解いて中を突っ切り尚仁沢林道に出た(針金はちゃんと復元しておきました!)。シカの食害は本当にあるのか?あるならば、現存する立派な植林地は防護フェンス無しでどうしてできたのか説明してもらいたいものだ。積雪の多い日光とは違って、高原山南側は餌には困らないのでフェンスは不要だ。ニッコウキスゲやシラネアオイが喰われるなら判るが、針葉樹の葉っぱなんか喰う動物がいるか!九州では田んぼのアイガモよろしく植林地に牛を放牧して下草を食べさせているくらいだ。防護フェンスをめぐらして植林事業として成り立つのかも疑問だ。結局、シカの食害を口実に税金をムダ使いしているだけだ。疲れているのに防護フェンスで妨害されてむしょうに腹が立った。
尚仁沢林道はミツモチ山南面を走っており起伏がほとんどなく歩きやすい。歩いているとポコッ、ポコポコッという下痢したときのような音が聞こえる。音源は林道の路肩に埋められた導水管である。この導水管は林道に沿って延々と続いており、水源は2箇所ある。最も遠くの水源は尚仁沢東尾根の湧水で、コンクリートの導水施設があり、余りの水が斜面を伝って尚仁沢に流れ下っている。
林道を歩いて車に辿り着いた。朝停まっていた車がまだ一台残っていた。どうやらこれはあの渓流釣り師の車らしい。かなり雨が降っているのにまだ沢の奥にいるのだ。自分も無謀だが彼も相当な好き者である。下着を脱いで体温が下がるのを防ぎ、暖房をつけて家に帰った。あやうく死にかけたというのに、運転しながら性懲りもなく崖のリベンジマッチを考えていた。
|