高原山の 歴史 / 史跡

 

 

山縣有朋記念館
山縣有朋の洋館別荘である。もともと大田原市にあったのだが、ここに移設され記念館として公開されている。木ノ芽沢流域の田園風景を見渡せる場所にあり、11月中旬には庭や付近の森林の紅葉と調和してとても美しい。

アクセス: 矢板市方面から行くのであれば、県道矢板那須線を上伊佐野(コンビニのある所)で左に逸れる。田園の中をひたすら真っ直ぐ道なりに進むと前方左向に山の麓に見えてくる。正面左側に駐車場がある。

矢板薪炭合資会社
明治後期の矢板市史に突如光輝きそして消えていった一大エポックである。黒田原駅前で薪炭販売を営んでいた奥村健助が、足尾銅山の坑木伐採用地の立ち木払い下げを機に明治37年に興した会社である。明治44年、矢板の大火で駅前の薪炭倉庫で出荷を待つばかりの大量の薪炭を焼失し、巨額の損失を出したことが原因で消滅した。8年間の短い活動期間ではあったが、地域経済に大いに貢献した。明治38年には炭焼き釜を数えること74基、県外からも多くの炭焼き人夫を雇い入れ、当時「かね矢山」と呼ばれた八方山地から大入道に至る広大な山域で大規模に炭焼きを行うに至った。特に明治38年は大飢饉による経済疲弊の中、人々にとって薪炭運搬による日銭は貴重な収入であり、矢板の経済を潤した。明治42年には泉地区から大入道までの荷馬車道を竣工し、これが部分的に現在の下塩原矢板線の基礎となっている。その時の道跡と思しき広い窪みが部分的に残っている。

参考文献:矢板市史

奥村道の碑 矢板薪炭合資会社の創業者である奥村健助が薪炭を運び出すことを目的に、明治42年には泉地区から大入道までの荷馬車道を竣工した。毎日30台もの荷馬車が往来したという。奥村道の碑はこの荷馬車道の建設を記念して建てられた。

何が原因であったのかはわからないが根元から折れていて、石碑の後ろで鉄パイプで支えてある。

場所は下塩原矢板線から寺山鉱泉に到る道路が分岐する三叉路にある。「寺山鉱泉」と書かれた大きな看板が立っている場所である。横に簡単な案内板が立っている。